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わかりやすい短編小説をつくろう

1 :松風あおい ◆qnBeHfchc. :03/11/23 11:50
このスレは「わかりやすい」をモットーにします。
一、二回のレスで終われるような短編小説を書いて下さい。
2つにまたがる時は、1・2などの番号をタイトルに入れてください。
批評も自由ですが、あまり熱くならないように気をつけてください。


163 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 22:05
「結婚祝い」

「誰からだ?」
「冴子さんたちじゃない?」
「なんだ」
「なんだはないでしょ。あなたと同じ課の同僚なのに」
法子はそういうと、包みの紐を解いて中を開けてみた。木箱に五つ揃えの小鉢
セットがおさまっていた。小鉢はふちのまるい青白色をしていた。法子はその
ひとつを手に取り出してみた。
「ちょうどよかったじゃない? あたしたち、まだ食器類が揃ってなかったか
ら。特にこういうちょっぴり見栄えがするのがさ」
法子は手に取った小鉢をしげしげと眺めまわして、うんうんとうなづいてみせ
た。彼女はそれを夫の高次に手渡すと、木箱の中の説明書と重なって、法子た
ちへのメッセージが入っているのに気が付いた。
文面はごく普通のどこにでもありそうな祝辞だった。法子はそれをもう一度、
読み返した。やや右肩上がりのくせのある達筆で書かれている。法子はその字
に見覚えがあった。
冴子さんの字だわ─。→

164 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 22:06
職場で見なれている文字に、法子はしばらく目を落した。そして、冴子さんか
らよ、といいながら高次にメッセージを見せた。彼は何気ない様子でそれに目
を通した。読みながら高次は、メッセージを書いたのが誰だとも、誰の字かわ
かるか、とも言わなかった。
「もう少し面白みのあることがいえないもんかな、うちの課は」
ただそうつぶやくと、何くわぬ顔で、メッセージが書かれた紙を法子の手に返
した。彼女はもう一度その文字をよく点検する目で見直すと、紙を元のように
折りたたんで木箱に戻した。
やがて高次が、青白色の陶器をいじくりまわしながら、いい色だ、とひとこと
いった。そうして彼はその小鉢を法子に返した。法子はそれを手の中で一周さ
せてみた。
「あなた好みの色ね」
そういって、法子は青白色の陶器を木箱に戻した。
まもなくかれらは、次の祝いの品に話題を移した。→

165 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/08 03:45
その日の夕刻、法子は晩ごはんの仕度に、さっそく冴子たちからの小鉢を使っ
た。法子は茄子の輪切りをたっぷりの油で炒めて小鉢に盛り、葱のみじん切り
をちらして醤油を落した。それは高次の好物でもあった。高次は法子の料理の
腕をほめてくれた。もともとは、その作り方を教えてくれたのは高次である。
彼が彼の料理を自分でほめているようなものだ。しかし法子のうれしさに嘘は
なかった。
「音楽でもつけましょうか」
「そうだな」
法子は居間のステレオを付けに立った。空になっていたはずのカセットデッキ
にテープが入っている。高次のしわざかと思い、カセットのスイッチを入れた。
ひと呼吸おいてイントロが流れた。法子がまったく知らない曲だった。
「どうしたの、このテープ?」
「課の人間にもらったんだ」
高次はただそういっただけで、誰からもらったとも、誰からもらったかわかる
か、とも言わなかった。どの課なのかも具体的にはくちにしなかった。二人が
勤めている会社には全部で二十九の課があった。
「あなたの好きそうな感じの曲ね」
「そうかな」
高次は茄子炒めをつつきながら、あいまいに応えた。そうして手元の赤ワイン
を素早く引き寄せると、いつもの器用な手付きで栓を抜いた。その音が、おそ
らく、後に出てくるだろう法子からの問いを完全にシャットアウトしてしまっ
た。→

166 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/08 03:46
祝いの品はあくる日にも届いた。法子が同僚からもらってきたもので、彼女は
それを高次の前で開けた。包みの中はまたもや木箱だったが、ふたをとると、
出てきたのは小ぶりの花器だった。深い焦げ色が磨き込まれて鈍い光を点々と
放っている。
「鉄、か。よく見つけてきたもんだ」
「あかるい花を入れるとバランスいいとおもわない?」
「もっともだ」
その木箱にも説明書とともにメッセージがそえられていた。法子は先に目を通
してから高次に見せた。墨痕あざやかな堂々たる筆運びである。文面はどこか
の例文のまる写しではあったが。
「またもやありきたりな文章だな。うちの会社の社員というのはどうしてこう
も型にはまった連中ばかりなんだ」高次は苦笑いをもらして言った。
書体は明らかに男のものだった。法子の課でデスクを並べている妻子持ちで、
たしか書道五段の免状を持つ、貫禄ばかりが売り物の五十男だった。課の者ら
は男の書の腕前を見込んで書かせたのだろう。
「法子の好みの書体だな」
と、ひとこと加えて、それを法子の手に戻した。→

167 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/08 05:09
その日もまた、夕食には昨晩つかった小鉢を夕子はためしてみた。太目の葱を
湯通しして一旦冷ましたものに白味噌を溶いたドレッシングをたらし、盛って
みた。これは昨夜とちがい、法子の好物だった。青白い鉢に葱の白をのせた時、
けして鮮烈とはいいがたいが、和して同じない淡い色の対照に目が吸われた。
「コントラストにもいろいろあるさ。あざやかだったらよいとは一概にはね」
高次がいつか言っていた言葉が、法子の脳天にまざまざとよみがえってきた。
彼女は気持ちを切り替えて、高次に言った。
「ある人からのメッセージだといってカセットテープをもらってきてあるの」
法子は会社の帰りがけに友人の順子から手渡されたテープをデッキに入れた。
順子のくちぶりでは、どうも個人的な頼まれもののような感じだった。だが法
子は高次にかくしごとはしたくなかった。彼女は思いきってデッキのスイッチ
を押した。→

168 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/08 05:10
高次は葱のサラダをつまみあげながら、スピーカーに耳を傾けた。法子も箸を
つかいつつテープの音に耳を澄ませた。メッセージが流れだした。男の声だっ
た。
法子はどきっ、としてデッキを止めようかと思わず身をのりだした。
高次が箸をとめてスピーカーの方を振り向いた。
かれらがよく知っている男性の声が、力強く、ゆっくりと二人に語りかけた。

「これからは、いやこれからこそ、いろいろあるだろうとおもう。しかし、君
達のことだ。僕はなんら心配などしてはいない。それはこれまでの君達の実績
が立派に証明している。今後も、二人共に、仲良く、喧嘩もたまにはいいだろ
う。それを隠さずにきたことが皆からの評価として僕のところまで届いた。社
長などと肩書きこそ大層なものだが、うちのせがれはまだまだ若い。どうか、
君達の厚味ある経験を活かし、せがれを社会人という名にふさわしい社長にし
てやっていただきたい。最後になって申し訳ない。高次君そして法子君。ご結
婚、おめでとう。これからも、どうか、幸せであってください」
それはかれらが勤めている会社々長の父、引退してなお、真の背骨を持つ男と
業界で畏怖されている、まぎれもない創業の人の声だった。
                           ─了─

169 :名無し物書き@推敲中?:04/03/10 17:02
ツマンネ

170 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 01:40
「おこりんぼ」

「わからないな。おれがお前を誘ったとき、どうして来なかったんだ」
「どうして行かなきゃならなかったの」
「あのとき一緒に来ていたら、いまごろこんな話などせずにすんでいたはずだ
よ」
「行きたかったけれど、ほかに用事があったの。知ってたはずよ」
「知っていたよ。知っていてわざと誘ったんだ。誘わずにはおれなかった」
「でも、あのときには、あなたにそれほどの気持ちがあっただなんて、ぜんぜ
んわからなかったわ。そんなふうには見えなかった。だからあたしは別にいい
だろうくらいの軽い気持ちであなたをそこに残していっただけなの。好きでな
かったわけでもなければ、どうしても他の都合を優先させたいとまで考えてそ
うしたわけではなかったのよ。あなたの気持ちがそれほどまでのものだったの
なら、どうしてそうだと、はっきり言ってくれなかったの? ちゃんと言って
くれていたら、あのときならさしたる問題もなく、あたしとあなたとの間柄は
ずっとスムーズにいっていたはずよ。あたしにもそれなりの心構えというもの
があったわ。なのにあなたは何一つはっきりとは言わずにただ何となく誘って
みただけだとでもいうふうな態度しか取らなかったじゃない。ちゃんと言わな
かったあなたにも責任があるわ。どうしてしっかり伝えてくれなかったの?
どうしていまごろになってこんな話が出てきてしまうの? あたしはこんなこ
とで足踏みしてしまいたくはないの。もう、あなたは、あたしの世界とは切れ
た場所にいるのよ。これほど目の前で会話を交わしている今もね。それが、ど
うしてこんな土壇場になってあなたのようなひとが登場してくるわけよ?」
「さきに聞いてきたのは佐和子の方じゃないか。佐和子が勝手におれを登場さ
せてしまっているんだ」
「それよ、腹が立つのは。形の上ではそうなってしまうということが」
「何が腹立つんだよ」
「あなたの、いいかげんだった態度じゃないの」→

171 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 01:42
佐和子は繰り返した。
「新吉、どうしてあのとき、誘うなら誘うで、もっとしっかり引っ張ってくれ
なかったのよ。あたしはついうっかりとあなたをほったらかしてしまったわ。
こんなことになるなら、あのときもっと、こっちの方からあなたのことをつな
ぎとめておけばよかった。もうどうあがいたって、だめなものはだめよ。あた
しには歴とした婚約者がいるし、新吉には佳奈子がいるわ。よく考えたら、実
にどうでもいい組み合わせだと思うわ」
佐和子は、もうお手上げ、という仕草を見せながら、空を振仰いだ。
新吉は佐和子の横顔をじっと見つめていたが、やがて川面に目をやって溜息を
ついた。
かれらの頭上をすずめが行き交い、さえずっていた。
「もう決まってしまったわ。この十月の末よ」→

172 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 03:09
新吉はポケットから煙草を取り出した。
「吸うかい?」
「いいわ」
新吉は一人で煙草に火を付けた。煙が風に吹かれ、佐和子の鼻先をかすめてい
った。
「あたし、いまね、あなたが生きているという事実が限りなく迷惑な気がして
いるわ」
「おれもだ。佐和子がこんな近くにいるということに耐えきれる自信がない。
息がつまりそうだ」
「こんなふうにしてしまったのは、あなたよ」
「おれはあのとき、誘っても乗ってこない佐和子をみて、なかば以上もあきら
めてしまった。あとがないとは予想していた。加えて、誘わずにいられない自
分なんだということも、よく承知していたはずだった。なのに、おれはあれ以
上強く言うことが出来なかった」
「あたしは待っていたのに」
「用事があると言ったじゃないか」
「ほいほい乗っていけたとでも思って?」→

173 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 03:10
「おれは苦しんでいたんだ。いまになって佐和子がやはり、あのときのおれの
気持ちを確かめておきたいから今日こうして会って話してくれと言ってきたと
き、おれはとたんに、思い出した。用事があると言ってさっさと行ってしまっ
た佐和子の後姿をね。なんだか、いてもたってもいられなくなった。だから、
本当のことをつい、くちに出してしまった。そうしたら佐和子は怒り出した。
当然といえば当然だと思う。なぜ今になってそんなことを言い出すのか。どう
してあのときはっきりとそう言ってくれなかったのかと。佐和子の言うとおり
だ。きみの方から連絡してきたとはいえ、ふたたび、気持ちを乱させるような
ことを言い出しているのは、確かにおれの方だろう」
「あなたの方よ。あたしはあなたを見るたびに、ここんとこ、苦い想いばかり
味わっているわ。どうしてくれるの。もう、あたし、結婚してしまうのよ。も
う、決まっちゃってるのよ。決めたんです」
佐和子の口調がかわった。
「いっそのこと、お前なんか嫌いだと、言ってくれればよかったのよ。つい、
くちにしてしまっただなんて、いくら好きだなんて言われたって、ははは。う
れしくもなんともないんです。混乱してしまうじゃないの。大混乱よ。大迷惑
だわ」
佐和子の目に不思議な光が宿りはじめた。一方からは悲しみに映り、もう一方
からは笑いにも見える。そんな陰影が波打ち出していた。
頭上を行き交っていたすずめが、土手をいっせいに川面へとすべっていった。
すずめたちは、あっという間もなく向こう岸へたどりつき、ひと呼吸おいたか
とおもうと、もういちど高く舞い上がった。→

174 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 04:14
「あなたなんて呼び出さなければよかった。おまけに、来てはいけなかったの
よ、あなたは。そうしてあたしは金輪際、きっぱり忘れるということが出来る
はずだった」
佐和子の声は彼女の輪郭に、すこしづつ能面の風貌を帯びさせつつあった。
「しかし」、と新吉が言った。「もう、来てしまったし、言ってしまった。佐
和子も聞いただろう。おれは君がよその男と結婚してしまうことが、とてつも
なく苛立たしい。正直な気持ちだ。呪わしいんだ。できることなら、いまここ
で、おれの手で佐和子の首を締め上げて殺してしまいたいくらいなんだ」
「あたしもあなたを絞め殺してあげたいわ。あなたの意気地なしのせいで、こ
んなに取り乱してしまうなんて、それをあなたに見られてしまって、あたしの
今の気持ち、わからないはずはないわね。生きていられないほど恥ずかしいと
いうことなんです。馬鹿がもう一匹の馬鹿を呼んできて、どちらが真実の馬鹿
であるかなんて、そんな話をしているわけよ。眉間に感情の皺などという、あ
あ、これ以上の瑕があると思っているの?」→

175 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 04:15
「じゃあ、結婚するな」
「いまになって言うなっていうのよ」
「遅くはないはずだ」
「残念ね。それにやめる気はさらさらないわ。あなたのような意気地なしの言
葉に動かされて、自分で決めた結婚を取り止めてしまうほど、あたしは情け深
い女ではないの。取り乱したあたしこそ、どうかしているのよ。腹が立つのは
そんな自分になの。それとあなた、さっき言ったでしょう? よその男ってい
う言い草。今後は特に気を付けてもらいたいわ」
「取り付くしまがない」
「バチが当ったんでしょ。一人で受けなさいよ。なんであたしまでが一緒に苦
しんであげなくてはいけないのかしら? 相手にそう感じさせてる時点で、失
格なのよ。無理を言えば何とかなるとでも考えたの? あんまりなめないでほ
しいもんだわ。消えてください、もう」 
佐和子は新吉を残し、ひとりで土手の道を歩き出した。新吉は佐和子になにか
言いたげな動作を見せた。佐和子は見えていないふりのまま、歩く速度を上げ
た。新吉の諦めが完全なものになっていくのが、佐和子にはわかる気がした。
佐和子はそこで、一度、ふりかえった。→

176 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 05:48
新吉の動きは止まっていた。新吉の心情までが止まっているはずはなかった。
それを見て佐和子は、どこか周回遅れの過去が行き場をなくした陽炎のように
ゆらめいているのを感じた。
「呼び出してわるかったわ。そこで止まって。もう、あたしはあたしです」
そういうと佐和子はふたたび歩き出した。新吉は土手の石も同然だった。佐和
子からすれば、形だけでも石に見えるのなら彼にとってはよいことだと思った。
気持ちの揺れなど、さしあたりは外見で殺しておけばいいことだ。そのくらい
の作業なら、いまの新吉にだってやって出来ないことではないと彼女は思った。
さらに、そう自分にも言い聞かせた。
追ってこない男。呼び出しには応じるが、追ってくることは出来ない男。
土手を歩きながら佐和子は考えた。追ってこないのなら、引くこともしない。
最初からしない。そんな新吉だったら、話はずいぶん違ったものになっていた
だろうと。
対岸の空を舞っていたすずめたちは、いつの間にか上流めざして飛び立ってい
た。佐和子は知らぬ間に自分の目に涙があふれそうになっているのに気付いた。
感情などという、泥まみれの池に囲い込んで封印してしまいたい穢らわしい態
度がまだおのれの中にある。それは今後の自分の生活の中では、一刻も早く、
処刑し去ってしまわねばならない何物かだった。→

177 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 05:48
佐和子は彼女自身を想像の中で磔にしてみた。輝きこそしないけれど、芒洋と
くすんでもいない。なによりもそんな想像を直視できるところまでくることが
出来ている自分に、ちょっとした微笑さえ振る舞ってやりたい気がした。そう
思うと彼女はもう普段の装いのまま、新吉の知りようのない佐和子に戻ってい
た。
午後の日差しが川面をまばゆく照らしている。彼女はそれをとても爽やかだと
感じた。やがて佐和子は鼻唄の一つもくちずさんでいた。それに気付くと同時
に小さな笑いがこみあげてきた。佐和子はあまりのおかしさにこらえきれなく
なって、笑いをこらえつつその場にうづくまった。
新吉はたぶん、まださっきの場所で煙草を吹かしているのだろう。いつまでも
どっちつかずなんだわ、と密かにつぶやいた。彼は彼の輪郭をはっきりさせる
ことが、なによりも怖いんだわ。新吉はもうしばらく、逃げつづけることだろ
う。でもそれは、彼のせいではないんだわ。だって輪郭をはっきりさせるだな
んて、言葉の使い様を低く見積っている彼には出来ないこと。自分の不可能な
ことにおびえまわっているなんて、それこそが新吉らしさなのかもしれない。
刀の使い方を知らない男が、いくら盾ばかり並べてみても、かなしいだけ。
佐和子は土手の先に二つの川がまじわって大河になる点に設けられた堰を見た。
底知れない濁流が悠々と方向を変え、大きく迂回していくところだ。そこから
先はほとんど曲がりくねることなく、海へ達している。海は碧い。が、まだこ
こは泥まみれで、逆にいえば、そこでこそ佐和子に課せられた何かがあった。
陽をうけた川面は、濁流は濁流なりのきらめきを放ちながら風紋さえ浮かべて
いる。佐和子は誰にともなく、ひとりごとをくちにした。
「人を殺すのに、銃器の一つもいるとでも思っていたのかしら。彼」
                        ─了─

178 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 05:29
「香の女」

女は酒の店をやめて下着の店につとめた。次に下着の店をやめて花の店を手伝
うことにした。花の店にあきてきたころ、彼女は香の店につとめだした。ほと
んど趣味できめた店だったが、香の店は思いのほか繁盛しており忙しく、その
ぶんつとめがいはあった。
香の匂いに誘われて、店にはさまざまな女たちが出入りしていた。女たちに入
り混じって、幾人かの男たちもやって来た。それらの男たちはもともと香を求
めてやってくる客たちもいれば、そうでないものらもいた。そうでないものら
は、香の匂いに誘われてやって来た女たちの匂いに吊られてやって来た。なか
には、両方ともいえる男までがいた。そのうちわかってきたのは、おそらく、
どちらの男たちも両方であって、終始一貫して完全にどちらか一方などという
男などここにも存在しないということだった。ただ程度の差や立ち居振る舞い
にちがいがあったにすぎない。→

179 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 05:31
香の店は香の匂いに満ちていたが、それ以上に女の声に満ちていた。それは幾
つもの層を成していた。彼女にはそれが子供の頃に読んだ孫悟空が乗る金東雲
の挿し絵に思えるときがあった。常に店内をぐるぐると巡っており、いろんな
からまり方をしては目には見えない色模様を変幻自在に描いていた。たまたま
風神と雷神とがかち合わせたりもした。男の匂いは、彼女が出るまでもなく、
さきに香みずからが何らの音ひとつ立てず纏い付き、ほんの爪先ばかりを残し
てさらりと消し去ってくれた。女たちはそうした残香にさえ敏感に反応した。
おのおのがそれぞれの香りを選び終えるころ、女たちはそれまでよりも遥かに
神々しく振舞い、誘われた男たちを畏怖と煩悩の果てへと導いた。
迷いはじめた男たちを受け入れるのも追い払うのも、彼女らには思いのままだ
った。→

180 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 06:10
雨の日も風の日も雪の日も、もちろん晴れの日も、日照りの日であれ、同じこ
とだった。目に映っている光景のみがちがって見えていただけだった。
香の店にふらふらと迷い込んだ男たちは、あいもかわらず、受け入れられたり
追い払われたりを飽くことなき仁義のごとく、繰り返していた。
陰影と薫香とが醸し上げ、紡ぎ出す、妄想のような絵は、次第に彼女のなかで
現実を反転させ、からくり画のような生温い店内の様相のほうが本当は現実に
近いものなのではないかと感じるようにもなっていた。
ともかくそこは、香の女の城であり、香りが太陽や月や水にとってかわる、陽
の当る暗がりでもあった。
三年が過ぎたとき、彼女はその店を辞した。そして生れ故郷の、海の見える町
へと帰っていった。→

181 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 06:11
「三年くらいいたかしら」
美子は珈琲をすこしすすって答えた。
「香の店、か」
「そう」
「はやっていたのか」
「まあね」
「ここは潮の香りがするよ。それに腐った魚の匂いも」
「そうね」
「犬や猫の匂いもある。ノラだがな」
「ええ、たしかに」
「濁酒や吐瀉物の匂いなんかは年中だ」
「それは仕方がないでしょう」
「男の汗の匂いもな」
「きらいじゃないけど」
「知ってる」
そういうと燐次は煙草の火を付けた。
「吸うかい?」
「ええ、いただくわ」
美子は燐次から煙草をうけとると、セカンドバッグから自分のライターを取り
出して火を付けた。美子のくちからゆるゆると煙が洩れた。→

182 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 07:52
「燐次、大学院には今もかよっているの?」
「ああ、仕事をしながらな」
燐次は煙を吐きだしながらこたえた。店の天井あたりまで紫煙がもくもくと立
ちのぼった。まるで煙突だと美子はおもった。
「大学院って、のんびりしているの?」
「のんびりしているな。おれの性には合ってる。たまらなく合っているな」
「仕事は何をしているの?」
「幸吉の店の手伝いさ」
「それはアルバイトっていうんじゃない」
「ドイツ語ではそうともいうかな」
「屁理屈ともいうんじゃない?」
燐次はもう一度、腹一杯にした煙を天井へ吹き上げた。今度はそれが、ずいぶ
ん昔に見た記憶のあるマッコウ鯨の潮吹きをおもわせた。
「何の保証もないからな。幸吉が死んでしまえば、それで終わりだ」
親父、音楽がとまってるよ。と燐次はカウンターへ首を向けてマスターにいっ
た。マスターはカウンターの奥で海老フライを揚げている最中だった。
「すまねえな、燐次。レコードを取り替えてくれないか。いま、手が離せない
んだ」
「たいそうな御馳走なんだろうね、たぶん」
「うるさい。フライってのは無心でかからないと危険だろうが。いやなら食う
な。もっとも手数料はきっちりいただくが」
マスターは燐次の目をにらみつけると、さっさと海老フライに戻った。フライ
の揚がる香ばしい匂いが美子の鼻をくすぐった。今朝あがったばかりの海老、
新鮮な玉子、小麦粉はブレンドで、油は何だろう。パン粉はたぶん、駅前のス
ーパーのもの。油は…。→

183 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 07:53
美子がそんなことを考えているうちに、カウンターでは燐次が棚にずらり並ん
だレコードをあれこれと物色していた。しばらくして油の音がかわったような
気がした。同時に、二十年代のジャズがいきなりスピーカーをふるわせた。
「どうだ?」
「なんだかウキウキしてきたわ。突然だけど」
「昼間はこんな感じでいいだろ」
「こら燐次、ここはパレードの会場じゃないんだからな。ふざけるのはよして
もらおう」
揚ったばかりの海老フライを皿に取り分けながら、マスターは苦い顔を見せた。
「いつも演歌ばかりじゃないか。せめて陽の高いうちはこういうのをがんがん
流してみてもいいだろ?」
「余計なお世話だ。お客はご近所の主婦がメインなんだ。美子ちゃんならわか
ってくれるはずだっての。いろいろ経験してきたんだ、目を見ればわかるさ。
なあ」
「え、ええ。マスターにはマスターのお考えがあるはずよ」
「そうなんだよ。さすがは都会で学んできただけの配慮があるよ。聡明だ。と
もかくだな、お客のおしゃべりの邪魔になっちゃいけないんだ」
「そんなことだから、ここの常連の話題には、だれそれができたの別れたのと
湿っぽいのがやたらに多いんだよ」
「お前、そんなこと知ってるのか? よっぽど暇なんだな」
マスターは適当に話をそらすと、燐次と美子のテーブルに海老フライ定食を並
べた。
いただきます、と美子はうれしそうにいい、にこにこしながら揚げ立てのフラ
イを頬張った。→

184 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 04:34
チリリン─、ドアが開いた。帽子をかぶった男がノッソリと入ってきた。三人
は同時にドアのほうを見た。
「やあ、美子。ひさしぶりだなあ」
幸吉だった。燐次がアルバイトをしている店の主人だ。彼は早くに亡くなった
父のあとを継いで竹細工の営業をやっていた。品物じたいは手先の器用な燐次
が、もっぱら担当するようになっていた。同級生の間柄は気安くもあったが、
主人と使用人という関係が出来上がっていくとともに、ただ言葉ばかりが空転
しているような時間が割込んできていた。葛藤といえばいえた。しかしそれが
かえって二人を大人にしていくのだという実感がかれらを支えてもいた。
「なんだなんだ、えらく景気のいい音楽がかかってるじゃないか」
幸吉は美子の隣にかけながら帽子をとった。
「かわってないなあ、やっぱり。都会に出ても、変にすれた感じが全然しない
な。きれいだよ、美子は」
「ありがとう。うれしいわ。あいかわらずやさしいのね。幸吉は」
それにくらべて、と露骨なまなざしで美子は燐次を見た。
「燐次ったら、腐った魚がどうとか、吐瀉物がどうだのって。会っていきなり
よ。それが話題なの」
「はあ? お前ら、そんな話をしてたのか? いったい何のことだ」ざっくば
らんで気さくな幸吉はマスターを見て、いつもの、という仕草をした。マスタ
ーは珈琲カップをひとつ、棚から取り出した。燐次がくちをひらいた。
「何でもない。お前にはわからない次元の話だ」
燐次は紫煙をふかしながら答えた。どこかふてぶてしいものを、美子は感じと
った。さっきまでのマッコウ鯨の潮吹きと似てはいるが、似ているというだけ
のことで、わずかであってもちがうものはちがう。美子はそれを、香の店で何
度か味わったことがあった。だがそのときはあくまでも店員としてのことだ。
「ははあ、わかったぞ。学問だな。それならおれには関係ないよ。燐次の専門
だ。ところで美子、燐次から聞いてくれてるとはおもうけど」→

185 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 04:35
「もちろんよ。なんだかわるい気がしてくるくらい。パーティだなんて、本当
に」
「あたりまえさ。三年ぶりだ、三年ぶり」
「楽しみにしているわ。法子たちも来てくれるんだとか」
「法子に夏美、俊一も来るよ。なにせ、やりての美子のご帰還だからな。土産
話もうんとあるだろうし。みな、楽しみだと言ってた」
「あんまり期待しないで。緊張しちゃうじゃない」
「そういわれると、ますます期待してしまうのが人間の性というもんだ」
「お前の性だろうが」
燐次が唐突に話の腰を折った。だが悪意はまったく感じられない。これくらいの会
話なら、いつものことなんだろうと美子はすこしほっとした。でも、と美子は
思う。この会話はいまのところ、いわばたわいのない素人漫才のようなものだ。
しかしこれがつづくとどうなるんだろう。二人の男のあいだに、どんな色の時
間が流れはじめるんだろう。美子はそのつづきを、彼等の知らないどこかから
のぞいてみたいような気にふと、とらわれた。
幸吉は出された珈琲をぐっとひといきに喉に流し込んだ。
「これから買い出しに行ってくるよ」
そういうと、さっき脱いだばかりの帽子をつかんで立ち、ずかずかと店を出て
いった。幸吉のきっぷのいい背中を見送りながら、美子はドアのベルを聞いた。
チリリン─。幸吉が残したベルの音は、どこかなつかしい風鈴の音を思わせた。→

186 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 06:19
「彼ってぜんぜんかわってないわね。いつ会ってもとても元気そう」
「あかるいだけが取り柄だ」
「いいじゃない。あなたとは正反対だわ。あたし好きよ」
「おれがか?」
「馬鹿。幸吉よ。こちらの心を楽しませてくれるわ。楽しいもの」
「おれも楽しくさせてやったじゃないか。なんともいえないいいリズムだ」
「レコードじゃないの。楽しいのは」
「人の気分をスムーズに変えてやれるような音を選ぶのも才能の一つだ」
「自画自賛ね。あきれちゃうわ」
「あきれついでにひとつ、話しておいてやろう」
カチッ。カウンターの中でちいさな音がした。
「なに、たいしたことじゃないさ」燐次は平然とつづけた。
「なんなの?」
「おれは結婚することになったよ。この九月だ」
燐次は煙草を灰皿に押し付けると、ようやく箸を割り、海老フライをつつきだ
した。美子はふいに黙り込んだ。そうして燐次の箸の動きをみつめた。レコー
ドは終っていた。マスターはあわてたように別のレコードを引っ張りだすと、
これまたあわてて針をおとした。ターンテーブルが息を吹き返した。歌ものだ
った。五十年代の女の声がスピーカーからとろりとこぼれてきた。何か訴えか
けた気なけだるさを帯びていた。どこの国の言葉だろう。燐次の知らない言語
だった。ジャズに南米の民族音楽をふりかけて日本の田植え歌をかけ合わせた
ような珍妙なメロディだ。燐次はマスターの気転に先をこされた。すでに美子
は笑いをこらえていた。空気がかわった。
仕方がない。しかし、言っておいたほうがよいのだ。マスターにはわるいが、
と燐次は思いきって口調をきりかえることにした。→

187 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 06:20
「勝手に町を出ていった女のことなど、もう忘れた」
「とつぜん何をいいだすのよ。うそでしょ?」
「嘘は疲れる。嘘を付く理由もない。おれは捨てられたわけだ。捨てられた男
がどこでだれと何をしようが、美子が気にすることではないはずだが」
「捨てたなんて。捨ててなんていないわ。それよりそんな言い方、よしてよ」
「捨てられた本人がそういってるんだから、たぶん確かだ。お前はおれを捨て
た。おれはお前に捨てられた。お前は立派な女になってかえって来た。そして
おれは、お前以外のほかの女と結婚する。なんてわかりやすい論理だ。気持ち
が晴ればれとしてこないか?」
「おい、燐次!」
何もこんなところで、しかもそんな言い方はないだろう。マスターがカウンタ
ーをのりこえて二人のあいだに割って入った。
「わるいがね、親父、いやマスター。あんたも知ってるとおり、おれは紳士で
もなければ、ましてや淑女でもない。ただのお客だ。だからというわけではな
いが、気取りすまして不必要なほどの寛大さで女を許すことなんて出来るわけ
ないだろう。やさしく話しかけてやることは出来てもね。見てのとおりさ」
「そんな言い方はないとおもうわ。マスターに対しても失礼よ。いくら」
「あってはいけないのか」
「それにあたし、これからはずっとこの町にいるつもりよ」
「気のすむまでいればいいじゃないか。手後れって知ってるか」
「早い遅いの問題じゃないとおもうけれど」
「心配せずとも、美子にはさっきの幸吉がいるじゃないか。あいつはほんとに
いい男だよ。おれが保証する」
「そんな問題でもないはずだわ」
美子はおもわずくちびるをかんだ。何がどうなっているのか、自分でもわから
なくなってきていた。→

188 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 08:23
「美子。よく聞いてくれ。幸吉はずっと前からお前さんのことが好きだったん
だよ。知ってたはずだ。よくわかってたはずだ。いまでもあいつの枕カバーに
はでっかい字で美子と書いてあってな、しばしば涎でべちゃべちゃになってる
んだ。まあ、どこにでもあるような話なんだが。部屋の壁にはこれまたでっか
い写真が巨大な額に収められて飾ってある。金縁の額にな。それをあいつは、
ご丁寧にも毎朝ぴかぴかになるまで磨き上げて、そうして仕事に出るんだ。お
れはそんな幸吉の変人ぶりを黙って眺めてるだけなんだ。寝惚けまなこでな。
なんだかおかしな光景だとはおもわないか? おれの目にはなんだかね、お前
さんが世界の真ん中でただただ突っ立ってるだけの宿命を負わされた女に見え
るんだな。そのまわりを幸吉やなんかがぐるぐるまわってるんだ。ぐるぐるま
わってるうちに、幸吉はいつのまにか人間ではなくなっていきそうな感じがす
るんだな。ともかくあいつはお前さんのわがままに何ひとつ言わず、ひたすら
待っていた。お前さんも、これからこの町で生きていくというのなら、相手は
あの男だけだ。幸吉だけだ。おれは切実にそう思うよ。他に男はいるけれども、
お前さんの相棒にはなれないよ。どう思う?」→

189 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 08:25
燐次はみそ汁を音を立てて飲み込むと、ごちそうさん、と空の皿に向かってい
った。「そうして、もし美子が幸吉と一緒になれば」
美子はじっと耳を澄ませて聞いている。
「美子は店主の奥さん、店主夫人ということになる。おれはただ単なる使用人
だ。幸吉は営業で走りまわっている。いそがしい身だ。おれは一日中、仕事部
屋にいるか、大学院から山ほどもある本を持って帰ってきては、そこらへんに
横になって読んだり書いたりしてるだけだ。わかるかい? この意味が」
「おい、燐次!」
「そんな大声ださなくったって、ちゃんと聞こえてますよって」
「おれの店でそれ以上の態度は許さねえ」
「真っ昼間から誰とできたとか実はどうのとか、ああいう連中はいいのかい」
「な、なんだとお」
「美子、わかったか。たしかに今の美子には香にふさわしい雰囲気が漂ってい
るよ。いや漂うどころか、しっかり血肉と化してる。お世辞抜きに綺麗だと思
う。なんだかこっちの頭がくらみそうなくらいだ。でもな、三年程とはいえ、
それだけ離れていた女だ。香の匂いもいいけれど、男の匂いも相当なものだ。
おれにはそれが、よくわかる気がするよ。これがたとえ逆の立場だったとした
ら、どうだ。聡明なお前さんのことだ。おれのことを許せたとおもうか」
そういいきると、燐次は勘定を置き、席を立った。美子はあっけにとられて燐
次の顔を見上げた。こんなふうな直撃だったとは、美子自身にも予想できてい
なかった。ともかく何か言わなければ、と彼女はわれにかえった。くちをつい
て出てきたのは、あまりにも惨めな、ありふれた言葉ばかりだった。
「あたしをおいていくの」
「おいていったのはお前さんだよ」→

190 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 10:16
「どうしてひとこと、相談してくれなかったの? それが筋じゃないの?」
「筋? なにをいまさら、と言うことも出来る。笑わせるな、と言うことも」
「相手は誰なの?」
「今夜、パーティで会えるはずだ」
「ええ!? あたしたちの仲間のひとりなの?」
「そういうことらしいな」
「ね、いったい誰よ!?」
燐次はそれ以上なにも言わなかった。
彼はドアの方へ歩いていった。もう音楽はやんでいた。彼はドアノブに手をか
けた。
「今夜、また」
燐次は表に出た。通りには風に乗って海が香っていた。午後の強い光が照らし
つけている坂道を、燐次は山の手の方へとのぼっていった。
「なんて奴だ! 美子ちゃん、気にするな。ああいう物言いしか出来ない奴だ
とは、思わなかったよ。見そこなった」
マスターはこめかみに怒気を脈打たせて燐次の皿を下げると、それを乱暴に洗
い出した。
坂道をのぼっていく燐次の背中を、美子は放心したまま沈黙で見送っていた。
その日の午後は過ぎていくのが長かった。本当はもっと短いのかもしれなかっ
たけれど、そわそわと落着かない美子には、時間がそれこそ鉄アレイでも引き
ずらされている虚しい拷問と何らかわるところがなかった。時計の秒針がまる
で、檻を揺れて打たれる梵鐘それじたいに見えた。→

191 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 10:17
燐次の相手とは誰なんだろう。
法子だろうか、それとも夏美だろうか。もしかしたら昼間に幸吉がくちにした
以外の誰かかもしれない。彼女は昔の仲間達の顔を次々と思い出してみては、
あれかこれかと燐次のそれと重ね合わせてみた。そのうち、疲れがきた。
美子の部屋はまだ明るいはずなのに、明るさを押し返し、ぶ厚い衣で行く先を
霞がけてしまう脳髄の渦にずるずると嵌まり込みかけてしまっていた。
そうしてついに、疲れの限界が訪れたころ、彼女の中で、彼女の足元で、鉄の
鎖がいつのまにか消えているのに気付いた。
なんて阿呆らしいことなの。気付いたこととは、自分自身の性格についてだっ
た。めちゃめちゃ損な性格だわ。
部屋はもとの部屋に戻っていた。そろそろ出かける仕度にかかる時間だと、時
計が静かに告げている。美子は海の見える町へ帰ってきて、ようやく、あとか
ら遅れて帰ってきた自分と一つになれたと感じた。
もっと楽しめばいいんだわ。
                            ─了─

192 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/18 10:46
「よこがお」

この夏、知子は市内にある広告会社をやめた。短大を出てすぐに勤めた会社で、
彼女はそこで三年間、広告文案の仕事をしていた。
無職に戻ったとはいえ、とたんに暇になりはしなかった。八、九、十月と三か
月のあいだ、知子はほとんど家におり、母にかわって掃除や洗濯、食事の用意
といった家事労働にせいを出した。家のことはだいたい午前中にすませてしま
い、昼の時間は、むかし習っていたクラシックギターを玩具がわりにつまびい
た。ときには市内の繁華街まで出かけて書店をのぞいたり洋服の買物を楽しん
だりした。
知子は、ゴミの日の朝はいつもより早くに目を醒ました。そして家中のゴミを
手早くひとつにまとめて指定の場所に放りにいく。ときどきノラ犬と目が合う
ことがあったが、ノラの目の奥に、自分のいまの境遇を見ることはわかりきっ
ているかのような気がしてさっさと台所に戻り、よく手を洗うと、家族の朝食
の仕度にかかった。知子の母はこれまで、ゴミ出しの朝が苦痛で仕方がないと
いつも愚痴っていたし、おまけに朝寝坊だった。結果的に二回分のゴミを貯め
込んで異臭を放っていることさえままあった。一度などは、前日の夜中にこっ
そりと出しに行ったのをご近所の口やかましい奥さんに現場をおさえられ、こ
っぴどく叱られたことがあった。→

193 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/18 10:47
知子が母のかわりをやるようになってから、母は面倒な朝の不機嫌から解かれ
ることになり、娘のことをやたらにほめるようになった。多少わざとらしいほ
めかただったが、知子はなかばしらけつつもけして悪い気はしなかった。とき
どき涎を漫然と垂らしたまま無防備そのものの寝顔で枕を抱いている母をみる
と、知子はまだ幼い子供でも見てやっているかのような微笑ましい気持ちにな
るのだった。
十一月になった。いつものように台所で朝食の後片付けをしていると、居間か
ら母の声が聞こえてきた。
「ねえ、知子。洗物をすませて一服したら、わるいけど魚庄さんで鰤をみてき
てくれないかい?」
「いいけど、何で?」
「今晩のおかずにするのよ」
居間のテレビではちょうど料理番組が終るところだった。
「ちゃんとさばいてきてもらってね」
「わかったわ」
知子は手っとり早く片付けを終えると、番茶を一杯だけのんだ。そして普段着
のまま玄関を出た。見上げると、雲ひとつない晴天だった。→

194 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/19 01:01
魚庄は、住宅地を私鉄駅へと抜ける一本道の途中にあった。知子が勤めていた
ときは駅まであっさりと自転車で飛ばしていた。勤めをやめた今はそんな必要
もない。彼女は歩くことにした。
空色のジーンズに白のトレーナー。いたってシンプルな組み合わせだった。い
つも同じものを着ているようにも見えるので、同姓の知人達にはセンスがない
かのようにいうものも中にはいた。じつはカーディガンだったりブラウスだっ
たり、色にせよ、象牙、乳白、スカイグレーだったりしたのだが、おおざっぱ
な連中にはそんなことは目に入らないだろうし、説明などしてやる必要もない
のでほうっておいた。ただわかる者はそれとなく理解を仕草などで示してくれ
たし、なにより、めざといのは異性の中にいる幾つかの目だった。とはいえ、
こちらから何らかのアピールはしていないつもりだった。それは見る側の取り
ようだと考えていた。
整然と区画された道を何度か折れ、駅への一本道にさしかかる家の庭から山茶
花が桃色の花を開いて彼女の方を見ていた。→

195 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/19 01:02
もうしばらく行くと魚庄がある。親子三人で切り回している魚屋で、仕入れは親父
が、店頭で景気よく売りさばくのは女房が、注文を受けた品を包丁でおろすの
が、一人息子の龍一の役目だった。
他の客にまじって知子が姿を見せると、龍一の母はすばやく知子を見つけて声
をかけた。
「いらっしゃい、ともちゃん! いつも元気そうだね。今日は鯛かい? 平目
かい? 槍烏賊の刺身なんてどうだい!?」
「こんにちは。おばさんの方こそいつもお元気そうで何よりだわ」
「あたしゃそれだけが取り柄だからね」
と言いながら奥の居間へと目をやった。居間の方では既に煙草を吹かしている
親父があぐらをかいてテレビを見ている。おれの仕事はおわったとでもいいた
げな背中だ。
「鰤をいただくわ。これにしようかな。三枚におろしてもらえます?」
「はいよ、鰤ね! 鰤だって、おい龍一! さばいておくれ」
包丁をつかっていた龍一がこちらを向いた。
「なんだ、知子か」
「なんだはないでしょ」
「鰤でいいのかい? アンコウなんかもあるぜ」
「鰤でいいの。これ、お願いします」
知子の指先に、青みがかって陽の光をなめらかに帯びた鰤がじっと横になって
待っている。→

196 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/19 03:16
龍一は、知子とは中学時代の同級生だった。そのころ、ふたりはそれほど親し
いわけでもなかったが、家が近いことと互いの子供が同い年であること、その
他もろもろのなんやかんやで、龍一の母と知子の母とは馬が合い、連れ立って
カラオケに出かけたりもしていた。そのために龍一と知子とはあまり話などし
ないにもかかわらず、互いの家の内状に精通してしまっていた。いまでも道で
ばったり出会ったりすると、何だかとてつもなく恥ずかしい思いをさせられな
がらではあるが、他の友人達とは別の意味で、気やすく相談事なども話し合え
る相手だった。
魚をさばく龍一の手つきは見事だった。
あっという間もなく三枚になった鰤をナイロンの袋にいれてもらい、知子は勘
定を払った。
ありがとう、と言ってナイロン袋を受け取るとき、彼女は店の中にひっこんだ
龍一を見た。彼はこちらに横顔をみせて、あなごの骨を熱心に抜いている最中
だった。知子はそれを見ながら、相変わらず堅い表情だなと思った。気やすく
話せる相手だったけれど、いつもそれだけで終ってしまうことのある相手でも
あった。しゃべっているときは気さくで、互いのこともよく知ってはいるのに
なぜか、ここからは踏み込んではこないという、目には見えない線を自分で引
いてしまい、いったんそれが横顔にあらわれると、もうとりつくしまもない感
じを与えていた。
もしかしたら母親どおしがいらぬことをぺちゃくちゃとしゃべり合ったのかも
しれなかった。もしそうだったのなら、それはそれで龍一のくちからはっきり
言ってくれればよいことだった。ところが彼はいつもおかしな冗談口を叩いて
はごまかしているばかりで、知子が気にとめておきたいと思うことには触れて
こようともせずにいた。ただ単に不器用なだけなのだということにまでは想い
いたらないのが、知子の死角だった。あまりにも近過ぎて自分から死角を作って
しまっていたのだろうか。→

197 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/19 03:18
魚をさばく手つきはあんなにも鮮やかなのに─。
知子は龍一の母ににっこり挨拶を残して、魚庄を出た。彼女が空けたところに
はすぐ別の客がぐいっと身を入れてきて、店先は人でいっぱいになった。魚屋
は朝から繁盛していた。
知子が離れていくとき、龍一は手を休めて知子の背中を目で追っていた。龍一
をそばで見ると、見ようによっては穴のあくほど見つめているようにも思える。
スリムの青と、ぴったりウエストのところで絞りのきいたふっくらしたトレー
ナーの白とが、龍一から仕事を忘れさせている。
「こら、龍一! 何をよそ見してんだい!」
母が、ぼけっとして女の後姿を追っている愚息を一喝した。龍一はどきりとし
た。なぜなら母は客の相手をしている。こちらには完全に背中を向けているは
ずだったからだ。わが母ながら、鋭い。うしろにも目が付いてるんだな。切っ
ても切りようのない目というものかな。
「お前のようなぼんくらには─」母はそこで、いったん言葉を止めた。
「さっさと仕事しな、仕事だよ。さあ!」
龍一は憮然としつつ、ふたたび、あなごの骨抜きにかかり直した。
客の誰かが鰤をくれと言った。もう一人の客も鰤だった。なんでだろう。龍一
の母は奥の居間で煙草を吹かしている亭主の方を見た。しばらくして彼女はこ
の現象がテレビのせいだということに思い当った。と同時に、知子の母のこと
がかすかに脳裏をよぎった。→

198 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/22 12:04
雲ひとつない空は午後もかわらなかった。
仕立上がった服を受け取りに市内の百貨店に出るという母を玄関で見送ると、
知子は自分の部屋に戻り、クラシックギターを手にとった。
ここ数日、手にしていない。いちど固まりかけていた左手の指先が、ふたたび
やわらかく戻りはじめていた。もとに戻った指先でベースラインを押さえてい
くのは、じつに骨の折れる作業だった。ガット弦ではなくフォークギター用の
ものを張っていた。指にはこたえる。だがそのぶん、本番でガットに張り替え
たときのなめらかさは、まるでふるさとにかえってきたかのような安堵を与え
てくれるのだった。
じわじわと人指し指から痛みがつたわってきた。
ずぶとい弦に指をすべらせてぐっと押さえ込むとき、知子は泣き出しそうにな
る。情けない気もするが、いちどもとのやわらかさにまでほうっておくとこう
いうことになる。それでも一時間は我慢していた。
薬指の先がふやけて押さえる力が限界にきたとき、彼女はさっぱりしない表情
でギターを壁に立てかけた。そしてベッドに横になった。知子は窓を通して、
雲ひとつない青い空を見上げた。窓の外では、抜けるような十一月の凛気が、
どこまでもつづいていた。
それから二日が過ぎた日の夜、知子のもとに一人の女の訃報がとどいた。
その日は二日前とはうってかわって、空は朝からはっきりしない煙雨だった。
夕刻を過ぎても止みそうな気配を見せなかった。→

199 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/22 12:05
知子のもとに連絡をくれたのは魚庄の一人息子である龍一だった。死んだのは
かれらの中学時代の同級生の雪江という女だった。
「交通事故らしい」
龍一の声は沈んでいた。男とドライブに出かけた帰りだったようだと説明して
くれた。男は即死、雪江は二日間生死の境をさまよったすえ、三日目の朝早く
に息をひきとったと、龍一は言った。
「それが今朝のことだ。今晩が通夜で、あすの午前十時から葬儀の予定だと聞
いてる」
知子は受話器を手に、亡くなった雪江というかつての同級生のことを思い返し
ていた。
雪江は小柄でおとなしい、切れ長の目が印象的な娘だった。元気がないという
ような感じではないが、どこか独特の風情をもっていて、あまりはしゃいだり
しない、落着いた雰囲気を漂わせていた。知子はギター教室で何度か顔を合わ
せたことがある。当時は知子のほうが上級のクラスで、雪江はまだ初級の教則
本を手にしていた。一年半ほどそこにいて、ある程度弾けるようになってきた
ところで知子は教室をやめてしまった。けれども雪江はつづけていた。中学を
出てから雪江に会うことはなかったが、うわさでは、それからもずっと熱心に
教室にかよっているということは、知子も耳にしていた。
雪江は死の前日、もしかしてギターを弾いていただろうか。たぶん弾いていた
にちがいない。車にも積んでいったのだろう。知子はクラシックギターをつま
びく、きゃしゃで切れ長の目をした二十三歳の女の陽炎を想像した。→

200 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/22 13:52
「明日のあさ九時半に駅前で待ち合わせよう。法子や貴男ともその時間に落ち
合うことになってる」
「わかったわ」
受話器を置くと、知子の耳に外の雨の音がきこえてきた。
部屋に戻った知子の目に、壁に立てかけたままのギターが映った。彼女はしば
らく、立ったままそれを見つめていた。雨の音は強くもなり、また弱くもなっ
た。そのうちそのなかに、雪江のつまびくギターの音色がかさなってくるよう
な気がした。
知子は自分のギターを手にとった。しかし、二日前の練習のおかげで指先が腫
れており、弦を押さえるとそれこそ飛び上がるほどの痛みが走り、とても弾け
たものではなかった。仕方なく彼女は手にしたギターをさっさと壁に戻した。
ギターはふたたび、ただ単なる壁飾りへとおさまった。
知子はタンスを開け、あした着ていくための喪服の手触りをたしかめた。
雨はやまず、夜どおし降りつづいていた。雨があがったのは、翌日の朝、知子
が出かける直前になってだった。屋外にはまだ湿り気が残っている。帰りには
冷えてきそうな空の色だった。
知子は鏡台の前に腰かけ、渋めの化粧をほどこした。そのぶん薄紅にはやや紫
がかったものを自分にしかわからないくらいにほんのりとつかった。眉のライ
ンを慎重に引く。こころもち細く引いた。
すると知子の目に、急に雪江のあの切れ長の目が浮かんできた。知子はすこし、
ひやりとした。
そうして濃紺のセカンドバッグをとって家を出た。住宅地には午前の光が残り
の露を照らしてきらきらとまぶしかった。山茶花の花びらは一晩じゅう雨に打
たれたあと、まだ乾ききらずにこちらをむいていた。→

201 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/22 13:53
知子は駅で待っているはずの龍一のことを考えた。龍一は今日も例の堅い横顔
を見せて幹事に徹するつもりなのだろうか。路面を行く人の影いがい、青空の
下で一つに重ね合わせることが出来るのは、喪服をおいてほかにないというの
に。
そうおもうと自分の不謹慎ぶりばかりが際立ってくるようでもあった。とはい
え、そうした不謹慎を呼び込んだのは、まぎれもなく雪江の死だ。彼女の、透
明すぎた生き方とその死なのだ。誠実さが喪の色を介して知子の体をつきうご
かしていることは、もはや否定のしようもなかった。
雨あがりの十一月の空を見上げながら、知子はおもった。
いちどギターの話でももちかけてみようかしら。もういちど、やりなおしてみ
たいんだけどって。あの、ぶっきらぼうな横顔にむかって。通じなければ、あ
きらめるだけだわ。そうでないと、これから会いに行く、白と黒との陰翳をた
たえているはずの雪江の遺影に、合わせる顔がなくなってしまう。
ほんとうに、魚をさばくのはとっても上手なのだけれど…。
まだ濡れている歩道に、昨夜散った木の葉が、ぺたりとはりついて動かなかっ
た。
                           ─了─

202 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:26
「土曜の午後」
法子は駅の北口に降り立ち、広場を見て呆然とした。
そこには友人の名未子が同級生の幸吉と一緒にベンチに腰掛け、仲よさそうに
話していた。法子はすこしむっとした。そして噴水のほうへ目をそらせた。
すると噴水をかこむ煉瓦のブロックに、女子ハンドボール部の由美が、男子ハ
ンドボール部の次郎とともに肩を並べてハンバーガーをかじっていた。二人は
それぞれの部のキャプテンをつとめている。笑いがおこるたびに互いの口から
バーガーの粉がぶはっと飛び散った。かれらは周囲のことになどてんで無頓着
で、自分たちだけの午後を楽しみ、はしゃいでいるように見えた。
だからうちのハンドはいつも負けてばかりいるのだ、と法子は憮然と考えた。
さらに法子は駅前の喫茶店のウインドをのぞいてみた。セピア色がかったウイ
ンド越しにうつったのは、世界史のクラスで彼女の右に席を並べている男子生
徒と、彼女の左に席のある女子生徒だった。二人はテーブルをはさんで一つの
グラスでつながっていた。斜めに折れた二本のストローから黒い液体が交互に
吸い上げられている。
知らなかったわ。あたしは邪魔者だったのね。
─ここは通れない。
法子はみんなに見つからないうちにと、降りてきた階段をふたたび引き返した。
こめかみには彼女自身には見えない青筋が、いくつか浮き出て脈打っていた。→


203 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:27
法子は駅の構内を横切って、南口へと出た。こちらの出入口には広場はなかっ
たが、すぐ前に本屋があり、その店先ではたいてい数人の高校生が週刊誌をと
っかえひっかえしながら、なにやらこそこそとたむろしていた。いつものそん
な光景を横目に通り過ぎようとしたとき、法子は店内に生徒会長の正義が雑誌
をめくっているのが見えた。そこで足をとめたとき、彼女のうしろから、彼女
をはねとばさんばかりの勢いで階段を駆け降りてきた女がいた。副会長の美子
だった。美子は正義を見つけると、泥棒猫のような身のこなしで正義にかけよ
った。
「待った?」
「いや、ぼくもいま来たところさ」
「そう、よかった。お昼はどうしようか」
「今日は河原の公園に行かないかい。すこし歩くけれど、いい店を見つけたん
だ」
「ほんとうに!? ぜひそうしましょう。生徒会長じきじきの、おすすめの、新
しいお店なのね。光栄ですわ」
かれらは目と目で互いに間合いをあわせると、さっさと書店をあとにした。
これだから、うちの生徒会というのはがたがたなのよ。なにもかも一部の指導
教師のいいなりの、ただ単なるいい子ちゃんで。そのうえ二人して同じ国立を
狙おうなどと、このあたしをさしおいて、こざかしいわ。ああいうのが将来の
犯罪者になるのよ。でなければ政治家か。いずれにしてもちがうのは名前だけ
なんだわ。
ぜんぜん面白くない、という憮然たる冷めた目で法子は歩きだした。
曲り角で、もういちど、法子は立ち止まった。絵画部の理沙をはじめ、茶道部
の梨花や蘭、そうしてそれらをとりまく男子らが団体で待ち合わせている。法
子はげっと思った。かれらはどこかへ出かけるつもりなのか。そんな予定は聞
いていない。とすれば、なんとなく惰性できまっただけの合コンなのだろう。
絵画部の理沙がこちらをふりかえった。法子はおもわず、物かげにかくれた。
なぜかくれなければならないのか。法子は自分に腹が立った。→


204 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:29
「いま、見なかった?」
「何を」
「たしか、法子だったような」
「ほんとか? 誰もいないぞ」
「人ちがいかしら」
「錯覚だろ。理沙の描く絵みたいな」
「なんですって」
「まあ、法子ならもっと目立つはずさ。あいつには妙な存在感があるから」
「そうね。でも、やっぱり法子だったような」
「だから人ちがいだって。あいつはおれたちのことなんて、相手にしてないよ」
「そうかなあ。相手にされてないんでしょう、おれたちではなくて、あなたが」
「な、なんだとお」
「さっき、おかしなこと言わなかった?」
それきりかれらは法子のことはくちにしなかった。そしてすぐ、どこかへ繰り
出す相談に戻った。くちぐちに言いたいことを言いたいままに、わいわい騒い
で、その場を占拠していた。
─ここも通れない。
法子はくちびるを噛んだ。ほんのり紅潮した頬をひくひくとひきつらせつつ、
もういちど、階段まで引き返し、とうとう改札口の前まで戻ってきてしまった。
われながら馬鹿なことをやっているな、とは思う。こんなことを気にしている
時間がどれほど無駄なことなのかということも、よくわかっているつもりだ。
なのに、どうして自分はいま、ここで、さも人待ち顔をしなければいけないの
だろう。法子は、今日に限ってどうかしている、と自分で自分を呪った。
改札口からは様々な人間が吐き出されてきていた。
だれもが法子の立ち姿を見てはいるはずだった。すくなくとも、法子は改札を
出るとき、その先に立っている何人かの人物を常に品定めしている。だからこ
そ可能な話題で校内は満ちているのではなかったか。法子はそんな世間にどこ
となく怒りとも悲しみともつかないものを見ることがあった。とはいっても、
それがいったいなんなのか、彼女は考えることはあっても、いっぽうで、そう
したことが面倒でもあり、また考えてわかるようなことではないだろうとおも
っていた。→

205 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:30
しばらくすると、黒の詰襟を着たひときわ背の高い高校生が、何くわぬ顔で改
札を通って出てきた。法子は、あっとおもった。それは彼女の幼馴染みで、彼
女の家の近くに住んでいる道信だった。法子が声をかけると、道信は一瞬だれ
だというような顔で周囲をきょろきょろと見まわした。
「道信じゃないの。偶然ね」
法子は彼を見てにっこりとほほえみかけた。
「何しているんだ、こんなところで」
いぶかしげな表情で道信は法子を見た。
「だれか待ってるのか?」
「いいえ、すこしぼうっとしていただけ。疲れてるのかな」
「いつもとあんまりかわらんようだけどな」
「そうかしら。気のせいね、たぶん。これから帰り?」
「見ればわかるだろう。法子はどこかへ出かけるのかい?」
「ううん。別に。よかったら一緒に帰らない?」
「そうだな。かまないよ。近所だしな」
かれらは連れ立って北口の階段を降りた。広場は土曜の午後の日差しが、うら
らかな光をやわらかにちりばめ、あちこちをきらきらと照らしあげていた。陽
と影との輪郭の鮮明さがひときわ目にしみた。→

206 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:32
広場にはさっきからの二人組がまだ幾つか残っていた。法子は広場の真ん中を
できるかぎりゆっくり歩こうと思い、歩道を先に立ってさっさと横切ろうとし
ている道信のそでをぐいぐいと引っ張った。
「なにをするんだよ」
「あわてなくてもいいじゃない、土曜日なんだから。時間は充分にあるはずよ。
ゆっくり歩きましょう、ゆっくりとね」
法子は喫茶店のウインドの前を通り過ぎるとき、ちらっと中を見た。世界史の
クラスの二人がまだいるのを確かめると、道信の腕をぐっとつかんでウインド
の方へ振り向かせ、わけもなく大きな声で笑ってみせた。
道信はいぶかしげに法子をみた。
「どうしたんだ、急に。お前、ちょっとおかしいぞ」
「あら、どうして? とっても素敵じゃない?」
「何を言ってるんだ。お前、だいぶんおかしいな」
「そうかしら。だって土曜のお昼なんだもの。なんだかうきうきしてきちゃっ
て」
「そういえば」広場でいちゃついていたあの連中は、と道信はようやく気付い
た。電車の中でたまに見かける、法子と同じ高校の男女らだ。→

207 :白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:33
「どこかで見かけたやつらだと思ったら、法子のところの生徒じゃないのか?」
「そうだったかしら? あたし、ぜんぜん気付かなかったけど」
「ははあ、そういうわけだったか」
「何をにやにやしているのよ」
「とぼけなくてもいいさ。じつに手のこんだ芝居だ」
「なんのこと? ぜんぜんわからないわ」
「いや、よくわかるよ。そうやって全力でとぼければとぼけるほど」
「いやらしいわらいはやめてよね。不潔に思われちゃうじゃないの」
大通りを折れたところで、法子は道信を喫茶店にさそった。
「珈琲だけなら」
「お昼はどうしたの?」
「学校前の蕎麦屋でくってきた」
二人はビルの階段を上って、窓から通りが見渡せる二階の店に入った。
昼時で店内は混んでいた。が、窓際のテーブルの客が四人、食事を終えてこれ
から立とうかどうしようかと迷っている様子だった。法子はそちらにむけて、
あからさまな咳払いをひとつしてみせた。
「おいおい、そんな真似はよせ」
「あなたがもうすこし、びしっとしていればね」
テーブルが空いた。二人はその席に腰をおろし、珈琲と海老ピラフ、サンドイ
ッチをたのんだ。しばらくして、注文の品が並んだ。道信もつまんでよ、と言
いながら法子はサンドイッチの皿をテーブルの真ん中へ動かした。→

208 :名無し物書き@推敲中?:04/04/01 15:49
「どこかで見かけたやつらだと思ったら、法子のところの生徒じゃないのか?」
「そうだったかしら? あたし、ぜんぜん気付かなかったけど」
「ははあ、そういうわけだったか」
「何をにやにやしているのよ」
「とぼけなくてもいいさ。じつに手のこんだ芝居だ」
「なんのこと? ぜんぜんわからないわ」
「いや、よくわかるよ。そうやって全力でとぼければとぼけるほど」
「いやらしいわらいはやめてよね。不潔に思われちゃうじゃないの」
大通りを折れたところで、法子は道信を喫茶店にさそった。
「珈琲だけなら」
「お昼はどうしたの?」
「学校前の蕎麦屋でくってきた」
二人はビルの階段を上って、窓から通りが見渡せる二階の店に入った。
昼時で店内は混んでいた。が、窓際のテーブルの客が四人、食事を終えてこれ
から立とうかどうしようかと迷っている様子だった。法子はそちらにむけて、
あからさまな咳払いをひとつしてみせた。


209 :名無し物書き@推敲中?:04/04/01 15:50
知子のもとに連絡をくれたのは魚庄の一人息子である龍一だった。死んだのは
かれらの中学時代の同級生の雪江という女だった。
「交通事故らしい」
龍一の声は沈んでいた。男とドライブに出かけた帰りだったようだと説明して
くれた。男は即死、雪江は二日間生死の境をさまよったすえ、三日目の朝早く
に息をひきとったと、龍一は言った。
「それが今朝のことだ。今晩が通夜で、あすの午前十時から葬儀の予定だと聞
いてる」
知子は受話器を手に、亡くなった雪江というかつての同級生のことを思い返し
ていた。
雪江は小柄でおとなしい、切れ長の目が印象的な娘だった。元気がないという
ような感じではないが、どこか独特の風情をもっていて、あまりはしゃいだり
しない、落着いた雰囲気を漂わせていた。知子はギター教室で何度か顔を合わ
せたことがある。当時は知子のほうが上級のクラスで、雪江はまだ初級の教則
本を手にしていた。一年半ほどそこにいて、ある程度弾けるようになってきた
ところで知子は教室をやめてしまった。けれども雪江はつづけていた。中学を


210 :名無し物書き@推敲中?:04/04/01 15:52
「明日のあさ九時半に駅前で待ち合わせよう。法子や貴男ともその時間に落ち
合うことになってる」
「わかったわ」
受話器を置くと、知子の耳に外の雨の音がきこえてきた。
部屋に戻った知子の目に、壁に立てかけたままのギターが映った。彼女はしば
らく、立ったままそれを見つめていた。雨の音は強くもなり、また弱くもなっ
た。そのうちそのなかに、雪江のつまびくギターの音色がかさなってくるよう
な気がした。
知子は自分のギターを手にとった。しかし、二日前の練習のおかげで指先が腫
れており、弦を押さえるとそれこそ飛び上がるほどの痛みが走り、とても弾け
たものではなかった。仕方なく彼女は手にしたギターをさっさと壁に戻した。
ギターはふたたび、ただ単なる壁飾りへとおさまった。
知子はタンスを開け、あした着ていくための喪服の手触りをたしかめた。
雨はやまず、夜どおし降りつづいていた。雨があがったのは、翌日の朝、知子
が出かける直前になってだった。屋外にはまだ湿り気が残っている。帰りには
冷えてきそうな空の色だった。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


211 :名無し物書き@推敲中?:04/04/19 18:39
おまいら新潮文庫の「極短小説」って読んだ?

212 :名無し物書き@推敲中?:04/05/05 13:23
>>211
黙れ

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